
奥田さんの心は人情厚い神田多町と共にある。
法人会
役 職 |
第30支部長
青年部会 副部会長 |
| 会 社 名 |
有限会社 奥田製袋工業所 |
| 主な職種 |
製袋 |
| 住 所 |
千代田区神田多町2-2 |
| 電 話 |
03-3254-2968 |


古き下町の情緒ただよう多町界隈と
一八稲荷社殿。


神田青果市場発祥の地
記念碑案内板。


戦後まもなくから現在まで稼働している製袋機。
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多町は江戸古町のひとつで、三番目にできた町である。多町は初め「田町」と云った。それが発展し人口あるいは人の出入りが増えたから「多町」と言い換えたという。江戸市中3割の面積に、町人は7割が住んでいたと言われている。多町は名の通りさぞかし人で賑わっていたことだろう。
多町のエリアは時代によって変わった。対になっていた多町一丁目は内神田となったから多町は現在二丁目だけである。
区民の居住地が業務用地に次々と変換されている千代田区の中で、多町周辺はまだ一般市民の生活の場である。多町通りあたりには高いビルがあまりない。
「多町といえばヤッチャ場でしょうね」と奥田さんは言う。青果市場は後に秋葉原に移りさらに大田区に移った。多町の住民は、かつて多町に青果市場があったことを記念する碑を建てた。
青果市場は多町の原点であり誇りである。
碑は今、都合で某建設業者の倉庫に眠っているが、千代田区の話では多町通りが整備された後、かつての建立位置から移動してその歩道上に設置されるとのことである。
多町の南側、路地の割烹の前を抜けて奥の詰まりに奥田製袋工業所がある。創業は昭和7年、昭和31年法人化した。袋作りは糊付けが主である。これを昭和の初めは内職に頼っていた。ところが奥田製袋所は違う。
「先代が機械好きでね、友達の鉄工社長と袋作りの機械を開発したんですよ」。
奥田製袋所は機械の開発という先代のロマンから始まった。しかし創業当時は戦中戦後で資材難、材料の紙がない。そこで今で言う農協からの発注で果実の保護用袋を新聞紙で作った。これが売れた。
今、製袋は大手業者が大量生産部分を押さえているから、奥田さんの仕事は発注数が小さいか、納期の短い仕事が中心である。それでも多いときは50万袋くらいある。
某学参物の出版社が全国の児童・生徒に配布する発注・集金袋も奥田さんが手がけている。
「ちゃんとやってればビルのひとつもできたのにね」と奥田さんは苦笑する。
仕事以外で奥田さんの好きなものの中に読書・祭礼がある。読書のジャンルは時代小説で、山本一力氏の著作が愛読書である。
「池波正太郎の鬼平犯科帳もいいですね。
下町の人情に憧れます」。
読書の時間、奥田さんは江戸の巷を歩き回る。
奥田さんは一八稲荷の世話役でもある。毎年3月の例祭は忙しい。一八稲荷につながる神田神社との付き合いも深い。
子息の結婚式も今年神田神社で行った。
奥田久勝さんの故郷は神田である。
奥田さんのこうした行動の動機は失われていく故郷の情緒・人情を追い求めていることにあるのかもしれない。心の中では江戸多町に住んでいる。
(2007年7月26日:取材) |