あれから60年、懐かしい学童疎開の思い出
中島光治さん(株式会社仲光 代表取締役)



趣味は帆船の制作という中島さん


会 社 名 株式会社仲光
主な職種 製本業





会津若松の白虎隊の墓まで「行軍」した時の
記念写真(前列左から5番目)




中島さんは昭和21年に埼玉で国民学校初等科を卒業している




当時疎開先で交流があった 長沢昇(セツ)
画伯からもらった絵葉書
 今や再開発によってその面影すら皆無だが、江戸時代この地区は武家屋敷の街であり、練塀町はそこに巡らされていた練塀〈瓦と練土を交互に積み上げその上を瓦で葺いた土塀〉に由来する。その由緒ある今はなき練塀小学校5年生(その頃は国民学校初等科)の中島さんが、学童集団疎開で福島県の会津・磐梯山の麓の村に向かったのは、戦況が厳しさを増す昭和19年の8月のことであった。

 「今は亡き川野先生(後の記録では当時27歳)に引率されて、希望者のみで5年の男子は28名。練塀町から上野駅までは徒歩でした。沿道は旗の波、凱旋将軍のような錯覚にとらわれた、と先生は後で書いています」。

 夜行列車で早朝着いたのが猪苗代駅。地元の小学校(野口英世博士の母校?)関係者の盛大な歓迎を受けた後、3里の山道を歩き、磐梯山麓川上温泉の旅館「滝の湯」に着き、一行はほっと一息つく。何とこの記念すべき日が8月15日。翌年のこの日が敗戦の日となるなど、この時誰も知る由がなかった。

 「記念日だからお祝いをやろうと、朝から騒いでいたら昼にあの玉音放送です。先生がいなくなった。後で聞いた話では手榴弾で皆で自決しよう、などという物騒なことを独りで考えていたらしい。授業はほとんどが教練。小さいけど温泉プールもあり、苦しかったけど、楽しいこともいろいろありました」。

 おにぎりを一つ持って、猪苗代から会津若松の白虎隊の墓まで往復13里の道を「行軍」と称して参ったこと、その冬は豪雪で二階から出入りしたこと。山でグミやアケビを採った。畑でもいだ、きゅうりやとまとの美味しさ。そして、戦後スタイル画の第一人者として「セツ・モード・セミナー」を主宰する長沢昇(セツ)画伯との暖かい交流が忘れられない。年齢は川野先生とほぼ同じ歳くらいで「会津の商家の坊ちゃんで、絵を描きに裏磐梯に来ていて、たまたま同じ宿に逗留した。我々はセッチャンと呼んで慣れ親しんだ。夜、子供たちの寝姿をこっそり写生したりする。図画の臨時の先生として実技の指導もしていただいた」。

 中島さんは学童疎開メンバーの同窓会「磐友会」の幹事役を務めてきた。「練塀町に在住しているのはわずかで、会員は各地に散ってしまっている。新聞に広告を出して呼びかけたり、川野、長沢両先生を招いて会を開いたり、会報を出したり、有志を募って裏磐梯への旅行にも行きました」。

 中島さんにとって、少年時代のあの学童疎開の一年余は未だに忘れ難い貴重な体験だったという。それは一冊の本にしたいほどの思い入れがあるらしい。

 「我慢することを覚えた。人に優しく接することの大切さも。会津の人達ほどいい人はいない。今の東京の人々の方が薄情かも知れません」。

 神田練塀町の町会長、秋葉原街づくり推進連合の会長を務めてきた中島さんはつくづくそう思う。